タルコフスキー監督の映画「ストーカー」(密猟者の意)が1979年に日本で公開された時、まさかこの言葉が執拗に人をつけ回す変質者を意味するようになるとは誰も思わなかっただろう。言葉が排除の原理を生み出すことはよくある。1990年代に定着した「ストーカー」という言葉は、「おたく」とか、「ニート」といった言葉と同様、内向的な青年に対する人々の認識のパラダイムを大きく変えたように思える。もちろん人をつけ回すことは犯罪であるが、ラブレターを手に好きな同級生の通学路で待っている青年はかつて「純情な男」であったが、今は「ストーカー」という言葉一つで排除される。緒方直人が一目ぼれの小泉今日子にひたすら思いを伝える1993年のテレビドラマ「愛するということ」も、今観れば立派にストーカー行為として気持ち悪がられる。1997年には「ストーカー~誘う女」と「ストーカー~逃げ切れぬ愛」という二つのドラマが同時に放送され、ストーカーという言葉の一般化と人々の恋愛のパラダイムシフトに一役買った。
もちろん僕はストーカー行為とは無縁なのだが、実はストーカーの男と一晩部屋を共にしたことがある。高校のあるクラスメートが一浪して僕と同じ大学に入学してきたので、お祝いに彼の下宿に行った。彼はまあ僕と同様クラスでも目立つ存在ではなかったし、高校時代ほとんど話したことがなかったのだが、話が盛り上がって、その日は夜通しで飲むことになった。そこで彼は好きな女性への自らの行動を語り始めたのである。彼は会話も交わしたことのない予備校のクラスメートの女性に一目ぼれし、告白したのだが拒絶された。そこまでならまだ不器用な奴だなあで済んだのだが、以降彼はストーカー行為を繰り返しているというのである。僕が驚いたのは、ストーカー行為自体はもちろんだが、そういった行為を、臆面もなく、むしろ誇らしげに語る彼の話しぶりであった。地下鉄の電車まで追いかけて腕を掴んだが振り切られたという話を「彼女の力って結構あるんだなあ」とか、「今度彼女の住所調べに区役所行こうと思うんだ」とか、そういったことを恥ずかしげもなく滔々と話すのである。僕はストーカー行為というのは、「未練」とか「嫉妬」といった類の感情によるものだと勝手に思っていたのだが、「ヒロイズム」とか「自己陶酔」といったものから来るものもあるということを発見するにいたった。要するに彼は自分のことを「愛の殉教者」と思っているのである。
殉教者も犯罪も紙一重だよ、という人がいるかもしれないが、まあ僕は、好きな人に迷惑をかけるくらいだったら、どんなに苦しくても胸にしまっておく方がいいし、男らしいと思う。
僕も実は相当未練たらしい男である。だから、例えば福山雅治の「最愛」や、山崎まさよしの「One more time, One more chance」なんて詩は結構しみる。「もう恋人じゃなくなったけれども、せめて心のどこかでつながっていたい」という心情も、「向かいのホーム」から「旅先の店」まで、思わず別れた彼女を面影を追い求めてしまう心情も、まあよくわかる。「最愛」では死ぬ間際まで別れた相手の笑顔を思い浮かべると言っているし、「One more time, One more chance」という曲も「新聞の隅(の記事)」まで彼女を追い求める未練がましさである。でも、「男らしくきっぱり諦めろ」とか「女は星の数だけいる」と言われようが、時間でも消し去れない思いって、やっぱりある。そこでぐっと気持ちをしまっておくか、たかが外れて暴走するかで、「愛の殉教者」と「ストーカー」の違いが出るのだ思う。